早朝の戯言。

私が書き続けるには理由があるのです。そう、モノゴトにはいつだって理由がある。「なんとなく」という言葉の裏には、本人すら知りえない心理が働いているから。

長年、Web上でこんなことをやっていると、たちまち噂になる。高校の友人たちに教えたものは「ネタ」となって広がって、私の知らない人たちにも伝播される。高校卒業して6年経ったイマも、その人たちがこの文章を読んでいるのは謎だけど、原点を辿れば、私はその人たちに向けて書いているのかもしれない、という想いが強い。(勿論、自分のためにというのもあるけれど。)まだ書いてんの?!とか言われそうだけどw

「ヒロちゃんの文章素敵だよ!」とか
「ハラヒロは抽象的に書いているんだけど『なんとなく』わかる!だから読んでて楽しい」とか
何年も前に言われたことをいまだ覚えている。
それらは確実に私自身をカタチ付ける土台になっている。そして発した言葉は他者にとっても、その人自身をカタチづくる養分になっている。
嬉しくて嬉しくて、ただ平凡に過ごした自分にも、人の心を動かせることができるんだ!って思った。
Webの世界は広いから、mixiでも同じようなことが起こった。そう、すべての人の言葉によって、私がいて、あなたがいる。だから書く。

私の拙い文章が「好き」といっていれる人にはもっと好きになって欲しいし
何か気になるキーワードがあってここに流れ着いた人には、一見で夢中になってしまう魅力が欲しい。
それが肯定でも否定でも構わない。「関心」を持っていただけることが何より重要で、そこから「考えて」欲しい。
だから私は書くことを止めたくないし、止められない。書くことによって自分が救われ、あなたの考えるきっかけになって欲しい。

半年間通ったコピーの講座も終わってみて、私はやっぱりコピーライターになりたいわけじゃないんだな、ということが大いにわかった。これは比較しないとわからなかったこと。他の方たちに比べて、私はそこまで広告バカではないし、コピーオタクでもない。(失礼な言い方ですみません。)そこまで熱くなる要素がなくて、ただ言葉の勉強をしたい一心で通い続けた自分にとっては皆様の知識の欠片を垣間見て感心したし、同時に「こういうんじゃないんだ」とも思った。

でも、最終課題のときは自分でも驚くくらいに考えて考えて考え抜いて書いた言葉が、確かに繋がる瞬間をみて、昔のころの気持ちを思い出した。言葉であれば形式は構わないんですね。感性の欠片、どこにでも詰め込めることができるんだね。

肯定されると嬉しくて、否定されると悲しくなる。嬉しい気持ちは嬉しくて「もっと書こう!」ってなるし、悲しい気持ちはとめどなく「もっとがんばらなきゃ」ってなる。その想いを、伝えて、感じて、考える。その感じる想いがポジティブに向かえたら最高だよね。