これからの「伝える」の話をしよう。

珍しく2日連続更新です。やっぱりこういうのって鮮度が命ですよね。早く書かないと、忘れてしまうし、どんどんどんどん埋もれていく。だから書くのです考えるのです、自分の理解と、前進のためにも。

今日は東海大学にてジャーナルエデュケーションフォーラム2010に参加。すごく要約すると「伝える」ことについて学んできました。「伝える人」=ジャーナリストという定義のもと、ジャーナリズムに関するあれやこれやを学んだわけで。(詳しくはコチラのblogを参照で。http://blog.goo.ne.jp/321switchon)。まぁ私はこの中のことを事細かに書く気はさらさらなく(そもそもそんなにうまくもないし)。今回参加してみて感じたこと、考えたことをメインにまとめるのであります。

  • 伝える人も、伝えるの対象の人も、それぞれの「想い」というものがあるということ。
  • 相手の「想い」ひとつで取材そのものがいかようにも変容してしまう危うさがあるということ。
  • 「メモ」ひとつで記事そのものがいかようにも変容してしまう危うさもあるということ。
  • 「記事」ひとつで受け手の心象をいくらでも変えられてしまう危うさも孕んでいること。

そのひとつひとつに対して、常識と礼儀と真摯さといった『姿勢』が必要だと思った。ただ闇雲に「伝える」んじゃない。「伝えることからどうなって欲しい」のか考える。そのことを念頭にして動いていかないといけないんじゃないか、と。だって、人と人は、「共感」して動くから。その共感を得るために、常識と礼儀と真摯さというのを基本として持ち合わせなくてはいけないんだ、と。

でもさ、「伝える」ことってその人自身の切り口が絶対必要になる。例えば、とあるひとつの「事実」に対し、ありのままを伝えるのではなく、その人なりの視点がないと、絶対興味深いもの、面白いものは生まれない。プラスアルファの知見を添えるといいますか。それは、企業だろうと個人だろうと、全般に言えることで。そういった姿勢・視点がないと、受け手は絶対「ファン」にはならない。もちろん「アンチ」も生まれるだろうが。アンチは時に美しいと私は思う。アンチテーゼがあるから、ジンテーゼが生まれるし。弁証法ですね。

その「伝える」ことが企業のみならず個人でも可能っていうのがソーシャルメディア時代なわけで。将来はもっと細分化された情報が拡散されていくんだなぁ、と。それをどうまとめていくのかにもよって、より「伝える」べき人に「伝わって」いくかと。 そうやって「伝える」ことは変容していくんじゃないかと(そこで「常識と礼儀と真摯さ」がないと当然叩かれるわけで)。

そこで印刷メディアが活きてくる。ソーシャルメディアはWeb上の媒体、情報だけど、それを「ひとつにまとめるモノ」として印刷物の存在は欠かせない。ソノモノの「重み」を感じられるのは、印刷の優位性。ソノモノを「形」として残せるのは、印刷の存在価値。だから私は「伝える」ことを拡張するものとして印刷は必要不可欠なものだと思います。


途中からめんどくさくなり、Twitterでの呟きをちょっとだけ再編集しただけというお手軽記事だったな。 とにもかくにも、よく考えた一日でありました。またすこし、前進はしただろうか?読んでいただき、ありがとうございました。