好きだから、怖かったから、また好きになれる。

なんてことない一日を、どれだけ過ごしたことだろう?毎日は、同じ24時間で過ぎていき、それを個人の取捨選択で世界が成り立っている。そんなもんだ。

すこし長い間、向き合っていたことがあった。向き合おうとするたびに、怖くて逃げだしたくて仕方がなかった。でももう逃げることは許されない瀬戸際まで追い込まれ、それを誰にも言うことができず、自分の中に溜めていってはどんどんどんどん澱んでいった。辛かった。それでも尚、逃げたかった。

でも逃げることはもう許されない。逃げることは裏切ることになるからだ。裏切りたくはなかった、でも世界から嫌われることも怖かった。雁字搦めだった、どうしたらいいのかわからなかった。

いつもいつも、そういうときはソーシャルメディアに助けてもらっていた。今回はそういうわけにはいかなかった。いい加減、オトナにならなければいけないのだ。モノに頼っていてはいけないという自尊心が邪魔をした。それをより、追い詰める結果になってしまったんだが、とある日の日曜日、私は年甲斐も泣くわんわん泣いた。世界のすべてから見放されたような感覚になって、モノクロームな社会が眼前に広がって、そのまま真っ暗になってしまったからだ。

好きだから、怖い。

そんな感情が湧いた。全ての根源は「好き」。好きなものがひとつでもあれば、人は生きていける。でも、好きなものに嫌われてしまったら、どうだろう?生きていけないではないか。怖かった。もう、生きていくことそのものが怖くて仕方なかった。

澱んでいく中で、発想の転換をした。たくさんたくさん、ない頭をこねくりまわした。そして、ある結論を導き出した。それは、怖いものの正体は「好き」そのものということだ。生きることが怖くって、幸せになることが怖くって、大好きな人たちに嫌われるのが怖かった。誰一人として嫌われたくなかった。なんだ、私は今までたくさんの「好き」なものによって生かされていたんだなぁ。なんてことない一日を9,300日あまり過ごして培った自分自身は、こんなにたくさんの「好き」に囲まれていたんだって思った。取捨選択を繰り返して、怖いものでさえ、「好き」に変えていったんだ。

あぁよかった。やっと迷路の出口を見つけた。これでまた、私は生きていける。深化できる。