自分の為に非ず。

新年あけましておめでとうございます。と、形式上では言ってみましたがあんまり年末年始の感覚がありません。それもこれもすべて【四半世紀少女】の所為です。はじめはただの飲み屋での話がどんどん膨らんで、ひとまず「写真展」が終わりました。なんというか、ヤマをひとつ越えた感じです。

何を話そうか迷ってしまうくらい、このタイミングはネタの宝庫なのですが、ワタシ目線の【四半世紀少女】についてお話をさせてください。

まず、四半世紀少女とはいうのは、語感が好きなただの言葉でした。私は25歳という年齢で何かしたかっただけで、結果、芳田と組んだからこのようなカタチになったと思っています。25歳という年齢を何か「武器」にしたかったんです。ひとりで何かをやろうとしたら、きっともっとひっそりこっそりやっていたと思います。そもそも本当にやっていたかどうか、それすらわかりません。

芳田賢明という人物には、私から見ればその位魅力がありました。Twitterを通じて知り合った初対面でです。それは同じ印刷業界にいるから話が合うとか、自分の知っている領域以上の知識を持っているということ以外の部分で、彼の生い立ち、生き様、姿勢、言動を理解して「この人には私のモヤモヤしている部分を話してみたい」と思えたからです。話した結果、どうなろうと、この人には自分のどす黒い部分や、ほんとーにどうでもいいことを、気にせずに話してもいいんじゃないのか、と思えたからです。追って垣間見た、彼が撮影する「写真」が彼そのものを形容している様にも感じました。

ブログでは今のところ1枚だけ、実際に展示したパネルを1枚紹介します。
私は、人間は多面体だと思っています。人によって見せる面は異なっていて、どれも本当の自分であり、どれも偽物の自分なんだと思っています。この写真は、一番最後に展示をしたのですが、その多面体である自分という人間をすべて包括する写真、四半世紀少女を象徴する1枚だと、私は思っています。

人生は紆余曲折です。私はまだその道の途中に佇んでいて、なんとなく、でも確実に一歩ずつ進んでいるものです。去年の自分と、今年の自分を比較してみよう。きっと1年でいろんなことがあったよ。でも成長ってしてるものじゃないですか、何かしら。四半世紀である私は、いま、こんな風に立っているんだ。背負っているんだ。笑っているんだ。何もかもを昇華してくれているように感じました。それは、芳田賢明だから出来たことです。私はただそこに「いた」だけで、彼がすべてを引き出しました。だから【四半世紀少女】という企画は、なんだか私が被写体で写ってしまっているのだけれども、芳田賢明のために存在しているのだと、思っています。

だから、私はなんだか、満足なのです。写真展を終えて、打ち上げを密かに行い、散々いろんな話をしました(というか打ち上げはほとんど賢明さんの独壇場だった)。時には同じ空間にいながらも、10分くらい会話をしない時もありました。【四半世紀少女】は私の誕生日1/3を区切りに26歳になることで物理的にはひとまず終わるのですが、精神的には死ぬまで、もしくはそれを凌駕するような新しい何かが発生するまでは、ゆるーく続いていくものだと思います。しかしそれは、私と芳田賢明の二人で続くのではなく、一緒に何回も打ち合わせに参加してくれた大事なともだち、DMを送らせていただいた400名弱の方、実際に写真展にご来場くださった93名の方、行けなかったけど写真集を買いたいとおっしゃってくださっている方々、ソーシャルメディア展開で広がって急にその存在を知ってしまった方にまで、細々と生き続けるものだと、思っています。

時にはソレを嗤う人もいるでしょう。蔑む人もいるでしょう。でも、私は【四半世紀少女】を行うことでしか、よくも悪くも生きてはいけないから続けていく、続いていくのだと思います。道はまだ、果てしなく遠い。

写真展そのものは、ギャラリーATHLEの扉を開けて、出迎える瞬間の感動。お花や差し入れをいただく申し訳なさに伴う嬉しさ。中をぐるっと見回ってすこしでも【四半世紀少女】に対して関心を持っていただいたことに対する感謝。メッセージに思いのまま刻まれた言葉。先に扉を開けて、見送る時の後ろ姿、淋しさ。「ありがとう」という言葉では伝えきれなかったから、深々と礼をしました。本当に、本当に、皆様ありがとうございました。

事務的な連絡になりますが、写真集に関しては近日中にネット上にて販売することになります。またお知らせしますし、別の話もきっと行うと思いますので少々お待ちを。


では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
ハラダヒロコ