今一度、フジファブリックについて考える。

7月10日は、フジファブリック 志村正彦の誕生日でした。
本当ならば、彼は33歳なのに、29歳の志村の姿が私の中にはありました。

朝は高らかに「Laid Back」ではじまりを告げました。
フジフジ富士Qのはじまりでも流れたあの曲です。
梅雨明けの晴れ渡る青空にはピッタリの曲で
自然と身体はリズムを刻みます。

通勤の途中には「陽炎」です。
クーラーが入った涼しい車両から遠くを眺めると、
切れ間切れ間で蜃気楼が揺れています。
そうして、志村の残像が胸を締め付けるのです。

ちょっと一服して喫煙所に行くと、日はすっかり伸びていて
覆い茂る緑の隙間からオレンジ色に染まる空が見えます。
「茜色の夕日」です。
いろんなものをとっぱらって、直接、沈みゆく太陽が見たくなります。
そんなことを思ってしまうのです。

深夜の空気は澄んでいて、まばらに星だって見えるもの。
そういう時は「星降る夜になったら」ですよ。
一日の終わりをゴキゲンな気持ちで終わるのです。

翌日になって気がつきました。
私の中のフジファブリック、それは季節とともに、時間とともにあることを。
一日の経過の中に、季節が巡るたびに、そのときの表情の「フジファブリック」があるからこそ、私はフジファブリックが好きだったのか。ということに。365日、私自身の毎日がフジファブリック色の染まっていって、その時間がかけがえないものであったということを思った。

雨上がりの空には「虹」が。
夏休みの終わりには「若者のすべて」が。
艶かしい気持ちには「Strawberry Shortcakes」
気分が冴えない時には「バウムクーヘン
別れの時には「記念写真」。

過去のフジファブリックを思い返すと毎日の生活に曲が寄り添っていた。
だからこそ、私はフジファブリックが好きだった。
そんなことを思ってしまった。しまった。しまった。