印刷における「表現とコミュニケーション」について。

昨日のこと、10月23日(土)に表参道で開催されている「パッケージ幸福論2010」という展示会?に行ってきた。仕事で表参道の駅に降りたとき、スミ1色で告知ポスターが1枚だけ貼られてて、直感が働いてしまったので;こういう「勘」はたいせつにしたほうがいいってコト、本能でわかってるので単身乗り込んでみました。

一応、立場を決めて行こうと思って「印刷営業」っていうのを定めたのね。実際、パッケージ印刷っていうのもあるし、パッケージに対して、印刷ができることって何だろう?って思いがもともとあったし。でも、そんな思いは一瞬で崩壊。だって、展示されてる「パッケージ」はとてもじゃないけど「印刷」とか関係なかったから。表現としての「パッケージ」がそこに存在していて、印刷はそれら「パッケージ」をひとつに集約する冊子として、コミュニケーションの役目を果たしていた。

ここで、ひとつ閃いた。「印刷」には2つのコミュニケーションの役割があるんじゃないのか?ってこと。

  1. あらゆるものをひとつに集約する役割
  2. アートとして表現する役割

1は今まさに話していたことで。6つの作品があったんだけど、それをひとつにまとめる役割として「印刷」された冊子があった。ひとつにまとめることで、点在するいろんな「パッケージ」という表現が「パッケージ幸福論2010」に集約されていたこと。それを読み改めることで「パッケージ幸福論2010をどう捉えてもらうか?」というコミュニケーションのきっかけになっている。
2はまぁ、今回でいう「パッケージ」という作品にあたるんだけど。印刷っていう技術は、アートとして十分成立するものなんですよね。それはまぁ、現在福岡で「book at me展」も開催されているから理解していただけるものだと思うんですが。ひとつの作品として、コミュニケーションを図ることができる。個人的には印刷もアートだと思ってるんでね、私。最近では同人誌みたいに個人的に本を作るZINEっていうのもあるみたいだし。(今度作ろうとしてますが。)

で、まとめるとですよ。「表現」といわれるものって世の中にたっくさんあるんですよ。でもその中で「印刷」という「表現」は、アートとして表現できるだけでなく、それを集約することができるっていうのが最大の強みになるんだ、ということ。媒体として、成立するのが強い。Webだって、まとめることはできる。でも印刷だったら形態を考えて、持ち運ぶことができる。それが「印刷」の面白さ。

でも、悲しいことにも「印刷」はあらゆる表現のひとつの手段にしかなりえないのか、ということにも気づいてしまった。親和性のあるパッケージですらそんなんだから、表現の細分化はどんどん進んでいってしまう危惧と期待が入り混じる。そんなことを思った、パッケージ幸福論2010でしたとさ。