さぁ繰り返し散文を!

誰でも彼でも「お山の大将」的部分を即していると思うのです。だって誰にだって得意なものがあって、不得意なものがある。得意なものは負けたくない、ほら「お山の大将」の出来上がり。

でも「お山」といっても様々な山がある。日本一高い標高3774mの富士山だってあれば、私が住んでる市内にある250m足らずの大楠山だって。尺度は違えど、どちらも同じ「お山」でどちらも大将なんですよね。

悩ましい毎日を過ごしていた。というか過ごしている。怒涛の一週間が終わった連休、手元に残ったのはなんとも形容しがたい空虚感。実時間と生産性のジレンマ。社会全体が止まった(遅れた)感覚に、自分の実時間が虚しく過ぎ去る。虚しくならないよう、したいのに怒涛だとそんなこと忘れる。怒涛が去ったら、空虚だったんだと気づいた。気づいたときにはもう遅い、どこにココロは置いてきてしまったんだろう。地震で地面が揺れたとき、私の身体からすっぽりどこかに落としてしまったのかもしれない。(となるとココロは日比谷にあるの?まぁそれは置いといて)あぁあぁ虚しい。でも何をすればいいのかわからない。

確かに山はある。でも私は何においての「お山の大将」なの?私が思っている山は、誰かにとってしてみれば山ではなく、ただの高台。津波がきたら飲み込まれてしまう。怒涛という名の波は私の山をいとも簡単に飲み込んで、ココロをあっという間にかっさらってしまったのかもしれない。いや、かっさらってしまった。だから手元に残る空虚、ガレキ。

でも空虚の中に、確かに私はいる。社会は広い、されど狭い。何年自分と人生を歩んできた。答えは私の中にある。空虚でさえ自分、受け入れる。失ったものから手に入れる。そうしてまた「山」をつくる。

さぁ繰り返し散文を。そうして自分の城を築こうではないか。自分のココロをもう二度と見失わないように。