時速10キロメートルのスピードで。

母が「自転車で移動してみたら?」って言うもんだから
その言葉に乗っかって、自転車に乗っかってみた。
行き先はハローワーク、無職の健全なる行き先だ。
歩いて見える景色と、電車で見える景色
車で移動しながら見える景色、自転車で移動しながら見える景色はぜんぶ違う。
時速10キロメートルのスピードで、旅をしていた。

太陽のヒカリを浴びて、自転車はなんだか嬉しそうだった。
暗闇のトンネルをまっすぐ、まっすぐ。
その先の、下り坂。めいっぱい風を切る。
風になっちゃえばいいのに、私は風にはなれない。

すし詰めの会議室、老若男女取り揃えて、極めて事務的な話を90分。
この空間にいる誰しもが、事情が違う。違う。ちがう。チガウンダ。
あぁ。私は、この手と、目と、耳と、足と、身体全身で反応して
ココロを、自分自身を、処理していくんです。
腑に落ちないことがあれば異論を唱える口を使わなければならないし
それでも納得できなければ行動で示さなければならない。

なんだろう。企業に属していない、ということは。
完全なる個人になるということのようで。
でもそれでは心許ないから、また何かに属そうとするのかな。
勿論、生きる為に、お金を稼ぐ為に、働くのだけれど。
なんだかそれって、おかしいような。でも、おかしくないような。
個人、なのに。属す、という。その行為そのものが。

私の知らない世界で、いろんなルールが決まっていて
その通りに動かないと、できるものもできなくなってる。
ただ自分だけ知らなかったような。
説明されて、それでも分からないことだらけで。
誰かの属している何かに踏み込むということは、オドオド、ビクビク。

鉛のような重苦しい雰囲気のある建物を出て
また時速10キロメートルの旅に出る。
いろんな道を通っていく。いろんな未知がこの世界にあるから。
せっかくだから、海沿いを横切った。ぽかぽか陽気と釣り親父。
26年この街で生まれ育って、そこで釣れる魚は知らない。
スローライフの、釣り親父たちの、世界。

それでも、私の目の前に広がる世界が世界で。それはとても心地よいもので。
最終的にはごきげんな時速10キロメートルの旅だった。

「ただいまー!」と勢いよくドアを開け、玄関から声を発する。
「おかえりー」とリビングから気怠そうな母の声。
あ。私はこの家に属していたのか。
個人、だけど。属していた。
冷蔵庫の残り物でつくられた、なんてことないチャーハンは
冷えていたけどとても美味しかった。
属すってことは、そういうことなのかもしれない。